口屋物語
元禄4年(1691)の別子銅山開坑を機に、瀬戸内の一漁村から四国有数の工業都市への道を歩み始めた新居浜の街。生産日本一を誇る別子銅山の粗銅(あらがね)を大阪へ送り、また、銅山で働く人々の食料や生活物資を搬入する重要な物流中継地として、大きな役割を果たしていた浜宿が『口屋』でした。
別子銅山で純度90%まで精錬された粗銅は、全長18キロメートルの新居浜道を経て、口屋へと運ばれました。
銅山から中宿の立川までの12キロメートルは、中持ちと呼ばれる人たちが人力で運び、中宿の立川から口屋までの登り道を通る6キロメールは牛車で運ばれました。
かつて新居浜の中心繁華街であった『登り道』の名は、口屋から銅山へと登る道であったことに由来します。
口屋に運ばれた粗銅は、船で瀬戸内海を抜け大阪へ運ばれ、大阪長堀・鰻谷 の銅吹所で純度99%まで精錬されたのち、国内用には、四角や丸に加工されました。 また貿易の対価として、棹銅に精錬され、長崎出島から海外に輸出されました。 それは、ベトナムホイアン市にも至ります(新居浜市友好都市)。
口屋は、元禄15年(1702)から明治26年(1893) に鉄道が完成し、機能が 惣開へと移転するまでの間、191年間にわたり銅山関係物資輸送の窓口でありました。
昭和48年(1973) に、別子銅山は、延べ65万トンもの銅を産出し、約280年の 歴史に幕を下ろしました。現在は緑深い自然に戻った山中で、日本の近代化を支えた 多くの産業遺跡がひっそりと眠っています。口屋跡記念公民館の敷地内にある樹齢三百有余年の老松『口屋あかがねの松』も、 今も静かに新居浜の歴史を見守っています。
新居浜発展の礎となった銅の歴史に由来するその名を冠し、平成18年(2006) に、 『口屋太鼓台』が誕生しました。